軽井沢国際テニストーナメント

軽トーの歴史


  軽井沢のコート。コートができたのは、明治時代といわれる。

  大正6年(1917)に第1回軽井沢トーナメントが開催されている。

  現存の日本のトーナメントで一番古い大会。

「軽トー」の歴史

 「軽トー」の歴史は古く、ジャパン・アドバタイザー(注)から優勝カップが寄贈された1917年(大正6年)が第1回大会とされています。軽井沢会の前身の「軽井沢避暑団 The Karuizawa Summer Residents’ Association K.S.R.A.」1918年版ハンドブックに「昨年は一般のトーナメントに続き、オープンチャンピオンシップが男子シングルスとダブルスで行われたのが画期的で・・・シングルスの優勝者にはAdvertiser Cup が贈られました。」と記載があります。現存するオープンテニストーナメントとしては、日本で一番古い大会です。戦争中に中断はあるものの2016年に100年目を迎えたことは、軽井沢会だけでなく、日本テニス界にとっても記念すべきことと考えます。明治30年前後から避暑で滞在している外国人宣教師達を中心に運営されていたテニスクラブがあり、明治時代から部内トーナメントが行われていました。これをオープントーナメントを開催するクラブにまで発展拡張できたのは、外国人避暑客と日本人避暑客のテニス部員による協力の賜物でありました。以後、「軽トー」には有力日本人選手も参加するようになり、歴代の優勝者にはデ杯選手が数多く名前を連ねています。

 太平洋戦争中の2年間(1944・45年)は、残念ながら中止になったものの、翌1946年には米軍がテニスコートを接収していたにもかかわらずトーナメントを再開しています。戦後の復興とともにテニス人口も増え、1957年には明仁親王殿下(現、上皇陛下)が軽トーに出場され、皇室との繋がりが話題になりました。1970年代に入ると、テニス人口は急激に増え、「軽トー」の参加者数も増加し、鹿島の森、日本信販ユートピー、町営コートなども併せて使用していましたが、「軽井沢会コートでプレーすることに意義がある」という参加者の意見が多かったことから、1977年よりダブルス種目のみとして、すべての種目を軽井沢会コートで開催するようになりました。尚、男子シングルスは、選抜男子シングルスの時期(1977~87年)をはさみ、1988年から正式種目として復活し現在に至っています。

 現在は、「男女一般ダブルス」「混合ダブルス」「男子シングルス」「男女各年令別ダブルス」「ジュニアシングルス」及び、懇親種目の「グランドベテランダブルス」全19種目で熱戦が繰り広げられています。参加者は、小学生から80才を超える方々まで多岐にわたっています。

 収容人数約200名のスタンドでは、ファミリーや友人の応援の傍ら、一年振りに会う友人や旧友との再会で話に花が咲き、社交の場となることも少なくありません。この光景は「軽トー」ならではの特色の一つと言えるでしょう。

(注)ジャパン・アドバタイザー(英語:The Japan Advertiser);1890年にアメリカ人ロバート・メイクルジョンが横浜で設立した英字新聞社。当時夏のシーズン中、軽井沢に出張所を設けて避暑客に英字新聞を提供していた。1940年にジャパン・タイムズ社に吸収合併された。

   

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